大阪市立衛生試験所(現環境科学研究所)では一九二〇年ごろから十数年間、後に東京市に移籍した岩橋元亮工学博士などが全国に先駆けてごみ処理の研究を行ってきました。私はそれを復活するために、一九五〇年に二〇歳をすぎたばかりで実質的に研究を任せられました(当時の上司は後の京都大学教授の庄司光医学博士)。衛生学的な分野以外は相談する相手もないままで、清掃行政部局と兼務して、若さに任せて工学的、実学的な研究を行ってきたのです。そのために、当時はこれほど発展する分野になるとは思いもよらなかった私の研究業績の多くが、心ならずも世界最初、日本最初になってしまったのです。一九六〇年前後から公害問題が注目されるようになり、大阪市にも新進気鋭の人材を集めた公害担当部局が設置されるようになりました。その初期の段階で、当時赤い煙を大量に排出して問題になった電気炉工場に電気集塵機を設置させたところ、集塵したダストがドンドンエ場内に堆積するようになり、その処理が深刻な問題になったのです。当時の公害係長であった松宮斌氏(現大阪環境保全社長)や豊田順三氏(現豊田酒造取締役)と私とがその対応を議論しましたが、分析の結果では酸化鉄に亜鉛が含まれていることが分かり、それは処理、処分するよりも、亜鉛と鉄の原料にリサイクルすべきだということになりました(その方法は数年後に実用化しました)。